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 2001年宇宙の旅
(2021/5/10)
神話崩壊
 弾 射音
 言わずと知れたSF映画の金字塔。世の中のすべて映画のナンバーワンという評価もある。私自身、1978年のリバイバル公開で観てすぐに熱狂し、その後、合計映画館で11回鑑賞することになった。

謎に満ちて、不可解で、理解不能な映画であることはもちろんだが、これには事情がある。共同発案者であるSF作家のアーサー・C・クラークが何ページにもわたって熱心に書いたナレーションを、監督のスタンリー・キューブリックがすべて削除したからだ。理解不能なのは当然である。キューブリックは観客が映画を理解するのを妨害したのである。理由はただそれだけ。内容の深遠さとはまったく関係がない。

クラークの小説版を読めば、謎は一気に氷解する。むずかしいことはまったくない。もちろん、たとえまったくおなじタイトルだとしても、映画と小説とは別ものであり、小説で理解できたとしても、それでただちに映画が解釈できたということにはならない。しかし、小説版は少なくともクラークが意図したテーマであり、作品内容であることはたしかで、謎に対する一つの回答たり得ていることもたしかなのである。

制作されてすでに半世紀以上を経ており、さすがに宇宙ステーションの女性職員のコスチュームにはいささか古びた印象があるが、それでも、宇宙船のコクピットのスイッチ類はまだまだ古びた印象はなく、それどころかいかにも未来っぽいデザインになっている。この映画の美しさは、特撮の美しさというよりも、美術の美しさなのだ。

小説版を読まなかったら、この映画は半分も理解できないだろう。キューブリックがそれを妨害していることはたしかだが、映画は映画単体で解釈するべきであることを考えれば、解釈はいかようにもできる。それがキューブリックの意図と外れていたとしても、解釈は解釈として成立する。小説も映画も、作者は不在なのである。

数百万年の昔の、人類の祖先たちの前に突然現れた石板、モノリス。それとおなじものが2001年の月面で発見され、木星へむかって強烈な信号を発する。人類は木星にディスカバリー号を飛ばし、その中にはカプセルの中で人工冬眠している科学者たちと、起きてディスカバリーを管理するボーマン船長とプール副長が搭乗している。途中、私見では小惑星帯を通過したあたりで、搭載されているコンピューターHAL9000が暴走し、船外活動をしていたプール副長を殺害し、それを救助にポッドで船外に出たボーマン船長を閉め出そうとする。しかしボーマン船長は危険を冒して手動のドアから船内に侵入し、HAL9000のメモリを抜いて無力化する。そこで初めて、ディスカバリー号が木星へ派遣された真の理由が明らかになる。木星に到着すると、その軌道上にモノリスが発見され、ポッドでそれに接近したボーマンは光のシャワーのようなところをくぐって、白くて床に影のない無機質な部屋に到達する。そこでボーマンは年老い、寝室にモノリスが出現して、ボーマンは赤ん坊の姿に変化し、地球の軌道上を旋回することになる。これが、できるだけ小説版の情報を排除した、大まかな内容。これだけでは、いったいなんのことかわけがわからないであろう。石板はいったい何物なのか、木星で出現する光のシャワーはなんなのか、白い部屋はどこにあって、誰が作ったのか、ボーマン船長がいきなり赤ん坊になるのはどうしてか、どの謎も一向に理解できないだろう。

もちろん、モノリスは古代に宇宙から来た知性体が、地球人類を進化させるために設置したものであるとか、HAL9000が暴走したのは、任務を遂行するためには人間が邪魔だと判断したからだとか、光のシャワーはスターゲート・コリドーと呼ばれるもので、ボーマンはそこをくぐって時空を超越し、知性体のもとへ到達し、進化して地球に戻ってきたのだとか、映画についていろいろいわれていることは予備知識として頭に入るため、まったく理解不能になることはあまりないと考えられるが、それでも難解であることに違いはないであろう。

難解であるが故に、また宇宙の知性体に人類が進化させられるというテーマを持っているが故に、この映画は哲学的な深遠なテーマを秘めていると言われている。しかし、小説版の内容が映画の解釈そのものだとすれば、それは哲学的なものとは一概に言えないのではないかと、個人的には思っている。世界最高峰の映画を地面に引きずり落としたくはないが、やはりキューブリックが意図的にナレーションをすべて削除したことがどうしても引っかかってしまう。もしもナレーションが削除されなかったら、観客は容易に映画内容を理解でき、ここまで神格化はされなかっただろう。たしかにビジュアル的には斬新だし、誰も観たことのない未来の姿をここまで正確に再現したのもすごいが、それでもなお、革新的な傑作止まりになってしまうのではないだろうか。

それだけでもすごいが、ここまで深遠なものとは言えるのか、どうしても疑問に思ってしまう。若いころは熱狂したし、いまでもところどころUHDで再見したりもするが、神格化は失せてしまった。卑近な言いかたをすれば、化けの皮が剥がれてしまったのである。

ナレーションが意図的に削除されて、監督自身が理解を拒否していることを念頭に置いたら、やはりあまり神格化をするのはふさわしくないのではないか。神格化をしなくても、この映画はじゅうぶんに傑作だ。

ちなみに、巽孝之氏は地球の周りを多くの人工衛星が飛び交うシーンを「無題」としているが、私はそこで章が変わってはいないと思っている。木星探査へディスカバリー号がむかうまで、21世紀最初の年も含めて、人類はまだ夜明けの時代だったのである。