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| ノルウェイの森 その2 (2021/11/21) 村上春樹の唯物論 |
| 弾 射音
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| 村上春樹作品の性行為に関する記述を読んでいると、思いっきり性行為がしたくなくなる。 理由は簡単だ。性的要素に関するどんな描写も、極めて即物的なのである。女性の身体をなで回すにしても、逆に女性にペニスを刺激されるにしても、キスをするにしても、挿入するにしても、さらには自分でしごくにしても、すべては行為を表面的な現象のみ描写し、それ以外のすべての要素を排除している。もちろん、性行為に伴う感覚もまったくの不在。それどころか、男と女がいっしょにいるとツイやってしまうルーティンのようであり、さらには挨拶代わりの気持ちのこもらない儀式のようでもある。もちろん、次世代の誕生・育成という要素も欠落している。ほんとうに、純粋存在、トマソン的事象。 この人はどうしてここまで性行為を貶めるのか。まさか性的コンプレックスの表象だとは思わないが、それにしても通常の感覚からは乖離している。なんか恨みでもあるのか。過去に女性に絡むひどい経験でもしたのか。それとも性行為の対象としての女性をモノとしてしか認識していないのか。 性的要素にかぎらず、村上春樹作品における登場人物の言動の描写は即物的で、描写されているモノは文字通り描写されているものでしかなく、それ以上でもそれ以下でもなり得ず、行間にただようものもない。これは一種の唯物論的思考であろう。そう言えばこの人は全共闘世代である。学生運動の経験があったかなかったかにかかわらず、時代の雰囲気に大いに影響されていたのではないか。マルクス主義の思想がそのまま表出してしまったように見えてしまう。くりかえすが、描写されている、登場人物の言動は、ほんとうにそれ以上もそれ以下でもなく、言外の意味を持たない。もちろん、会話文の内容は内容がないものではないし、時代の趨勢とか、世界観とか、社会認識を示唆してもいるのだが、発話という行為そのものはあくまでも即物的に描写されている。行間が読み取りにくいというよりは、まるで行間がないみたいだ。 あるいはこれは、人間という存在への嫌悪感とか、人間社会への嫌悪感がその根底に存在していて、はからずも表出してしまっていることのあらわれなのかもしれない。この人の作品では、登場人物の喪失感が大なり小なりただよっているが、この喪失感は人間存在とそれが形成する人間社会を嫌悪した挙げ句にしっぺ返しを食らった結果としての喪失感ではないのだろうか。そのため、どうしても登場人物には共感できなくなり、こんな人生は送りたくないと拒絶してしまう。そしてそれは、自分にもすでにそんな要素があることがわかってきて、近親憎悪であることが判明してしまうのである。これは自分とおなじだと思うがゆえの拒絶感。作者は自分を客観的に捉えているというよりは、自分自身への理解ができないでいるのではないか。こういった現象は、往々にして人生経験の欠如によって引き起こされる。もう少しマイルドに言えば、人生経験の不足だ。とはいえ、それなりの年代の作者が人生経験不足だと即断することはできない。だが、その人生経験というものは、あるいは自らの人生経験に関する認識は、不特定多数の人間の集合が形成する平凡な人生経験や人生経験観とはかなり乖離しているのだ。とどのつまりは、自己認識不足とそれが引き起こす自己中心的感覚ではないのか。もちろん、この作者にこれがそのまま当てはまると行っているのではない。しかし、少なくとも物語の主体にはこれが当てはまる。 気になるのは、作者を代弁する言葉がすべて主人公ではなく、主人公以外の周辺人物が発していることだ。 |